御着城
この城の名が知られるようになったのは、司馬遼太郎の播磨灘物語が世に出た時ではないだろうか。現在の姫路市の中心街から東へ約5キロのところに位置していた御着城は永正16年(1519)に小寺政隆が築いた城で、中核部分が本丸と二の丸にわかれ、北と東は四重の堀を廻らせ、西と南は天川を外堀に利用した二重の堀で囲まれていた。当時は別所氏の三木城、三木氏の英賀城とともに、播磨の三大名城といわれていた。小寺氏は播磨の守護赤松氏の一族で、南北朝時代から室町時代にかけて、七代150余年間、姫路城を守っていた豪族であった。その後、前途のように御着城を築き、則職、政職の三代60余年にわたり、小寺家の居城となった。しかし、その後小寺氏が織田信長に反旗を翻し、毛利家に付いたため、天正8年(1580)秀吉に攻められて、三木城落城と相前後して落城したといわれている。現在、城郭を模した姫路市東出張所が建てられている。官兵衛と御着城の関係は、天文13年(1544)官兵衛の祖父重隆が小寺政職に帰属したことに始まる。官兵衛の父職隆は翌年、小寺の姓を与えられ、姫路城を預けられた。官兵衛は、その翌年の天文15年(1546)姫路城で生まれた。その後、永禄4年(1561)16歳で御着城主・小寺政職の近習として仕え、御着城で起居するようになり、永禄10年(1567)22歳で家督を継ぎ姫路城に移るまでを過ごしている。御着城跡は昭和52年から3年間をかけて発掘調査を行った。その結果、建物の礎石や日常使っていたものが出土した。ここでは、その一部を紹介する。
御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。永正16年(1519)小寺政職が築城、則職・政職と継承され天正6年(1578)か7年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、嘉吉年間(1441〜44)にはすでに構居が設けられていたとされ、明応年間(1492〜1501)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能をもつ城郭として機能していた。昭和52〜54年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われた事が判明。中世の人びとの生活に深くかかわる土器・陶磁器・木製品・石製品等の遺物も検出された。宝暦5年(1755)の「播州飾東群府東御野庄御着茶臼山城地絵図」には城の中核に本丸と二の丸、西と南は天川を利用した二重の堀、北と東は四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、惣構えの城が描かれている。現在、御着城跡の中央を東西に国道2号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館がある。
縄張図
|